昨年からの目標である「謙虚」
そして、「傾聴」を学んでから、謙虚に耳を傾けることを意識しています。
そこから、ふと「丁寧」という言葉が心に浮かんできた2023年の始まり。
今までなら何気なく、悪気なく、何か他のことをしながら会話をしていたこともありましたが、その手を止めて、相手にちゃんと向き合って話を聴いたり、話す内容、かける言葉や相槌など、今まで以上に意識して人に「丁寧」に接し、そして、その会話やその時間そのものを「楽しむ」ように心がけています。
相手に失礼のないように、気分よくなってもらえたらいいと思ってやっていることが、
なんだかこちらが気持ちいいのです。
これも結局、「今」、「ここ」に意識を置くというヨガの教えやな~と、私の中でまた日常とヨガがつながります。
今年、49歳。
もう立派な大人(^^ゞ
こんなふうに、残りの人生、人として、大人として、少しでも「よく」生きていきたいなと思うのです。
「よく生きる」とは?
私の中で、亡き祖父のことが思い浮かびます。
祖父は、いつも「人のため、人のため」、何事にも「ありがとう、ありがとう」と感謝をして生きていた人でした。
ものを大切に丁寧に扱い、工夫して最後まで使い切る。
毎日何かを読んだり調べたり、それを紙に書き写したりしていました。
いつもは作業着ですが、出かけるときは白いシャツに、おじいさんがよくしている飾りのついた紐のようなネクタイ。
髪をくしできちんととかし、身なりを整えていた姿をよく覚えています。
毎日朝晩、いや、何かあるごとにいつもお念仏を唱えていました。
「きよちゃん、体は借り物。大切にするんですよ」などと、小さい時からいろんな話をしてくれました。
生まれた時からずっと祖父母と暮らせたことは、私の人生の大きな土台となり、
たくさんいる他の孫たちに申し訳ないと思うくらいに貴重なことだったんだと、大人になった今思います。
ただただかわいがってくれた「心からの愛」を感じました。
だからこそ、人に優しくできるようになりました。
「親の背中を見て育つ」ではないですが、どんなふうに年を取って死んでいけばいいのかを教えてくれました。
過去のブログ、我ながら何回読んでも泣く(/ω\)→「おじいちゃんの大好きな、、」
ヨガは、お釈迦さまとガンジーを悟りに導いたといわれているので、ヨガと仏教の教えはとてもよく似ています。
ヨガを続けるうちに、おじいちゃんの言っていたことや行動は、まさにヨガの教えと同じだと気づきました。
私がヨガに出会い、今に至ることに、昔々からの縁があったんだろうと思います。
その人の「人となり」は、一朝一夕ではならず、普段の言動の一日一日の積み重ね。
「内面が外見に表れ、自分の行動が全部自分に返ってくる」ということが身に沁みてわかるようになりました。
であるならば、ヨガの考え方である「自分を客観的に見る」ことができたなら、
おのずと人との接し方や立ち居振る舞いも変わってくるのではないか。
だからこそ、「無意識」って怖い。
祖父のように、人に感謝し、感謝されるような人になれたらいいな。
そして、最期に「いい人生だった」と思えるように、
人に期待するのではなく、人のせいにするのではなく、「自分が変わる」
ここ10年の私の目標、「感謝」、「素直」、「謙虚」に「丁寧」
はぁ、また一つ増えたやん。
人はすぐには変われない( ;∀;)
なので、この「丁寧」という目標は、私の中ではごまめ。
ごまめ??→関西では「特別扱い」「ノーカウント」みたいな意味。
※大きな魚同士が争っているそばで泳いでいる小魚のたとえだそう。
子供の頃は、友達の兄弟姉妹も一緒になってドッジボールや鬼ごっこなどをしたものです。
その際、「この子、ごまめな」と言って、小さい弟や妹には手加減してあげたり、
鬼にタッチ(大阪では「でん」)されてもアウトにならないなど、幼い子も交じって一緒に遊ぶ時によく使う言葉です。
丁寧はごまめで(^^)
幼い頃、幼なじみが「き~よ~ちゃん、あ~そ~ぼ♪」と家の前に呼びに来てくれたことから「き~よ~ちゃん」です(^^)/
日常とヨガ、ヨガと仏教がつながり、今まで私が生きてきたことにもつながりを見るようになりました。
いいことも悪いことも、生まれてから私に起こったすべてのこと、出会った人に感謝します。
ありがとう。